2020年9月4日金曜日

雄勝町を訪ねて.雄勝硯-VoL.001


今日は予てより予定した雄勝硯生産販売共同組合に雄勝町を尋ねました。
手仕事専科では、雄勝硯以外の雄勝玄昌石の食器を取扱う予定にしていました。雄勝玄昌石は粘板岩の美しいきめ細かな黒い石です。
事務長の千葉隆志氏は2011年3月11日で被災した方でした。
話の始まりはどうしても被災の時からになります。当時地震が起こった時には、外にいたようで地面の下で太鼓がドーンと鳴ったようだったと。三陸の方なので幾度も震度5程度の揺れは経験していたが、背中を丸くして這いつくばり、地面が波打つのを始めて見たと語りました。地震から高台に避難して50分近く経ち津波が自分たちの家を飲み込むのを皆で見たと言います。
津波が済んで、家に戻ると家には津波の流木や家々の残骸が流れ着いて残り、家で残っていたのは、基礎とお風呂のタイルだけだったと言います。あまりの惨状にその時は涙では無く笑いが出てきたと言います。

打ち合わせと商品の写真撮影が済み雄勝硯産業会館の建物の中やそこから見える大浦湾を写真に撮り戻ることにしました。
被災後9年半が過ぎると言います。
当時、津波はこのあたりで10mから18mの高さで押し寄せました。
私が石巻市内から走った女川沿いの大浦湾に繋がる周囲は穂も出そろい黄金色で美しい稲田でした。家々も確りと復旧し女川沿いの田園風景からは津波に飲み込まれただろう風景は想像もできません。
しかし、この雄勝町のあたりは、新しい家々が高台に並び、大規模の防潮堤が大浦湾に面して今当に工事中でダンプカーがひっきりなしに行き交っていました。
雄勝硯産業会館はテーマパーク的な核になる施設ですが、訪れる人はお年寄りのご夫妻や女性の数組だけでした。

当時の雄勝町は12,000人の町です。入江で養殖の漁業の町でしたので、年に2回程帆立祭りや海鼠祭りがあったと言います。
今は漁業に従事する人たちはお年寄りだけの数えるだけになりました。
被災から9年半が過ぎ今は4,000人、しかし、実質は1,700人程度のお年寄りの町です。これほどの復興予算をかけていますが、2,000人も済まないここの住民にこのような大規模な防潮堤は必要なのだろうか。
私には言葉もありませんが、悲惨さよりもこれから先のことをイメージできませんでした。

石巻市から女川伝いに初めて訪ねる雄勝町を目指して車を走らせましたが、明るい日差しの穏やかな田園風景ながら、なぜか心が騒ぐのを覚えました。3.11の被災で多くの命が失われその御霊が眠る湾に入ったからと思いました。私はそれほど霊感が強い者ではありませんが、不思議とそのようなものを感じます。私のお付き合いのある開和堂硯舗の山崎勝さんも奥様とお母様を亡くされています。何かの用事で町に出かけ津波の押寄せる時間に家に戻り、家ごと飲み込まれたと言います。
あれからもう直10年が経つのですね。
遠く離れた地に被災をしていない自分には、想像だけになりますが、時が過ぎるのを見ます。この穏やかな大浦湾がその地震で20m近くも高波となり押し寄せるなんて。1000年に一度の地震だと聞きますが、人の生きるとはその繰り返しです。
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